豊臣秀吉の家臣として、どのような人物を思い起こすでしょうか。
石田三成?
加藤清正?
少し戦国時代の歴史に詳しい方ならば、その1人として、福島正則を思い起こすでしょう。

福島正則は、小姓として、子供の頃より豊臣秀吉に仕え、数々の武功を挙げました。特に、織田信長亡き後の政権争いで、豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで活躍。「賤ヶ岳の七本槍」の1人とされる人物です。
豊臣秀吉の死後は、外様大名として、広島藩の初代藩主となりました。
名前 | 福島正則 |
---|---|
読み方 | ふくしままさのり |
生没年 | 永禄4年(1561年)~寛永元年7月13日(1624年8月26日) |
なお、福島正則の略年表は次の通りです。
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1561年(永禄4年) | 1歳 | 生誕 |
1578年(天正6年) | 18歳 | 初陣 |
1583年(天正11年) | 23歳 | 賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳の七本槍の一人とされる) |
1584年(天正12年) | 24歳 | 小牧・長久手の戦い |
1585年(天正13年) | 25歳 | 四国征伐 |
1586年(天正14年) | 26歳 | 九州平定(これまでの功により、伊予国今治を与えられる) |
1590年(天正18年) | 30歳 | 小田原征伐 |
1592年(天正20年) | 32歳 | 文禄の役 |
1600年(慶長5年) | 40歳 | 関ヶ原の戦い(東軍につく) |
1601年(慶長6年) | 41歳 | 広島藩主となる |
1619年(元和5年) | 59歳 | 武家諸法度違反で高井野に改易 |
1624年(寛永元年) | 64歳 | 高井野で死去 |
この福島正則のゆかりの地について、ベスト5を挙げたいと思います。
1位 福島正則像
私が知る限りですが、福島正則の銅像は、名古屋市にあるこの一体だけだと思います。
(他にもあったら、教えてください。)
名古屋の町中を南北に流れる堀川の沿いに、銅像は建っています。ある意味、都会の普通の川に急に銅像があるので、ちょっとした違和感があります(あくまでも私の感想ですが)。
武将と言えば、騎馬像など勇猛な銅像が多い中、普通に立っている像ですが、唯一の福島正則像ということで、まずはお勧めかなと思います。

2位 福島正則生誕の地
福島正則の生誕地には、碑が建っています。
田舎の田んぼが広がるところから、昔ながらの在所に入る入口のようなところにあります。
このため、草が茂っており、気づかないかもしれないので、要注意です(私はちょっとあたりをウロウロしました)。
正直、戦国時代の英雄としては若干寂しい感じしますが、決して都会とは言えない、戦国時代の田舎の村から立身出世に邁進した福島正則のことを考えると、感慨深いものがあります。

また、このすぐ近くに、菊泉院というお寺があり、福島正則の菩提寺になっています。

3位 賤ヶ岳古戦場
福島正則といえば、「賤ヶ岳の七本槍」の1人。福島正則だけが関係しているわけではありませんが、やはり福島正則ゆかりのものとして、賤ヶ岳の戦いを挙げておかなければならないと思います。
この戦いで、福島正則の名は広まったと言えるでしょう。

現在は、「賤ヶ岳古戦場」という名で、ちょっとした観光地になっています。
ただ、山の上にあり、下にある駐車場から、山登りをするか、リフトで上がっていくしかありません。
そして、リフト自体は晴れた日であれば、中々、気持ちがいいのですが、リフトを降りてから、古戦場の碑にたどり着くには、ちょっと歩く必要があります。
思えば、「岳」という文字が入っているので、山での戦いであることが分かるのですが、正直、賤ヶ岳の戦いは、こんなところで戦いをしたのかと、驚きです。

4位 福島正則陣跡
福島正則が大きな武功を挙げたものとして、関ヶ原の戦いがあります。
同じ豊臣秀吉の家臣でしたが、武断派として、石田三成に対立したため、関ヶ原の戦いでは東軍の徳川家康につきました。そして、岐阜県の関ケ原町には、関ヶ原の戦いに関する碑などが多くありますが、その1つとして、福島正則陣跡があります。
正直、単に看板が建っているだけなので、何のことはありませんが、他の武将の陣跡があったりもするので、お勧めです。商業施設などはないのですが、至る所に、関ヶ原の戦い関係の案内があるので、ちょっとした「関ヶ原の戦いテーマパーク」に行ったように気になりました。

5位 福島正則屋敷跡
5つ目は、ちょっと迷いましたが、福島正則屋敷跡を選びました。
他にも、広島城などもあるかと思うのですが、福島正則という人を知るには、その最後の地であるこの屋敷跡がいいと思います。
関ヶ原の戦いの功で、広島藩の初代藩主として、約50万石の大大名になるのですが、上記の年表のように、武家諸法度違反などを咎められ、改易となり、晩年はこの長野県の山奥で過ごすことになります。
現在でも、田舎の村なのですが、江戸時代初期の当時となると、信州の山奥に住むことになり、より一層の侘しさがあったのではと思います。
福島正則という人物を感じるにあたり、やはりこの福島正則屋敷跡は欠かせないと思います。

まとめ
いかがでしたでしょうか?
福島正則は、桶屋の息子から、豊臣秀吉に仕え、大大名まで出世しました。しかし最後は、改易になり、多くを失うことになりました。
これらの地を見て、福島正則について感じることで、ある種の人生の儚さなどが感じられるのではと思います。
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